最近考えること。
マジョリティとマイノリティについて。
多数派と少数派。
人はとても社会的な生き物です。
1人で生きるのではなく、社会を形成して集団の中で生きていくことを望みます。
所属欲求を持っていると言いますね。
それは人々が農耕を始め、定住し集落を形成していった弥生時代よりも、ずっと前からの習慣からきているそうです。
大昔の人類は、爪や牙を持つ大きな獲物を1人で獲ることは難しく、協力して食料をとったり、子供を育てたり生活していました。
そのような「知恵」や、コミュニケーションに必要な「心」もその中で発達・進化してきたと言われています。
一方で、他者とコミュニケーションを取らず1人で生きていく人間は、遺伝子を残すことが難しくなります。
コミュニティの中で生きる人間の遺伝子の方が残り、その傾向が受け継がれていきます。
自然淘汰。
効率よく遺伝子を残せる方が遺伝子が多く残り、結果その傾向を持つ遺伝子が増えます。
だから、コミュニティを形成して遺伝子を残した人たちの子孫が私たちなわけで、私たちはその傾向を持っているのですね。
もう1つ面白いなあと思った話があります。
人間にとって、仲間はずれにされるということは、物理的な怪我と同じ痛みを持つそうです。
どういうことかというと、仲間外れにされた時の脳の働きが、怪我をした時とほぼ同じだそうです。
仲間はずれというのは、つまり社会・集団からの拒否、社会的排除です。
怪我をした時、痛いと感じますが、これは体からのサインです。
異常が発生し、治さなくてはいけないというお知らせのようなものですね。
痛みを感じずに、放っておいたら体は怪我ばかりして、生きていけません。
仲間外れも同じく、人間にとっては生きていく上での大問題であり、解決しなくちゃというサインなのだそうです。
仲間外れについて話したいわけではなく、つまり人間が生きていく上で、他人・社会というのはとても大事なものとして認識されているということです。
でも、じゃあ社会の中で生きていくのが良い、社会から外れた人間は悪い、というわけではありません。
ただ、そういった傾向を持った遺伝子のほうが、遺伝子を残しやすかったということです。
”環境に適応したものが生き残る”
良いもの・素晴らしいものが生き残るのではないのです。
だから、マジョリティ=正しいではないと分かっていても。
人間の習性上、多数派のほうが正しく見えがちです。
多数派のほうが、今まで生き残ってこれたのですから当たり前ですね。
人が嘘をつけるようになったのは、嘘が良いことだからではありません。
それが生活に便利だったからです。
200万年もの間、そのようにして引き継がれてきた遺伝子を持つ現代人は、マイノリティよりもマジョリティを好むのは当然といえば当然と言えます。
他人が良いと言ってるものは良いと思い、悪いと思われているものは悪いと思ってしまうのです。
この習性を踏まえた上で、
何が自分にとって本当に良いもので、何が悪いものなのかを判断しなくてはならないのだと思います。
“Do not follow the majority, follow the right way”
ですね。
コメント